私は母をガンで亡くしました

2003年の秋、9月ごろから母のおなかにしこりが出来ていました。
便の通りも悪かったようで「なんだろう?なんだろう?」といっては
「家庭の医学書」とか読んでいました。
私はといえば仕事で疲れていて、ロクに相手もせずに「心配なら医者に行け」と
言うだけでした。
そんな母も10月にあることがきっかけでようやく病院で検査を受けました。
数日後、一緒に病院へ行くと母の診察後、私だけが先生に呼ばれました。
「ガンですね、大腸ガンです」
結構アッサリと言うものなんですね。
なんていうか、冗談みたいにアタマが真っ白になりましたけど
母には笑顔で「できものが出来てる。それ取ればOKだって」と言いました。
すぐに病院から母に隠れてつるぺた教授に電話。
この時真っ昼間に連絡できるのは彼しかいなかったし
何より信頼できる友人の一人だったからです。
誰かに言わないと、自分自身がプレッシャーに押しつぶされそうでした。
教授がそのときなんて言って励ましてくれたかは申し訳ないことに
覚えていませんが、勇気付けられたことは確かです。
そしてすぐに、入院、手術。
予定より30分ほど早く終わったかな。
その後執刀医の先生に呼ばれいろいろお話を聞きました。
「切り取った患部、見てみます?」
へぇ、見せてくれるんだ
「見せてください」
黄色い工具箱のような箱に母のそれは入ってました。
不思議とグロテスクな印象はなく、(思ったより小さいな)が第一印象でした
注)切り取ったために萎縮して小さく見えてただけでかなりの部分の切除でした
70歳を超えた母にはとんでもない大手術だったことでしょう。
その後、他の人よりも遅いながら何とか回復し
食事も取れるようになりました。
「検査して腹水も調べないとそこにガン細胞があるかもしれない」と
と先生は言っていました。祈るような日々でした。
11月初旬、退院の日、母と帰り支度してるときに母が食べたものを戻しました。
イヤな予感がしました。
先生に呼ばれ、別室に行く途中に報告するとそのことも含め
話があるとの事。
「脳に腫瘍が出来ています」
マジでエコーの効果付きで先生は言いました。
「もう、手の出しようがありません」
「死ぬのを待つだけですか」
「抗がん剤も効くかどうかわからないので使いません。もって2〜3ヶ月です」

(打つ手なしか・・・)
不思議と冷静なもんですね。
そういえば、数ヶ月前から母はめまいを訴えていました。
でも、普段から食が細いので「食べないせいだろう」と
タカをくくっていました。
もっと早く病院に連れてきていれば・・・。
病室に戻ると心配そうに母は「先生なんて言ってた?」
「薬のせいだってさ、めまいと吐き気を止める薬を出してくれるよ」
しかし、このめまいを止める薬がゲロマズで
母はこの薬のことを考えるだけで戻しそうになる始末でした。
(この薬、味見しましたが確かに飲めたものじゃなかった)
先生は、もう長くないことを知ってか「ムリして飲まなくてもいいですよ」
とか言ってました。
2日、ほとんど食事も取れず、私が作った野菜スープをちびちびと飲む母。
そして予定してた来院日の3日目。
とても歩けない母のためにタクシーを呼ぼうとしてた私に母が
「とても歩けない、救急車呼んで」
歩けないことよりも救急車を呼んでなどと弱音をはいた母に
私が驚かされました。
ウチは団地なので救急車呼ぶなんて言う目立つことは
何よりも嫌っていた母が・・・。
救急車の中で「いろんなこと経験させちゃったね、ゴメンネ」と
母は私を気遣っていました。「平気平気、めったに乗れないしね」
こんなことしか言えないのか、俺は。
即入院となった母。
「ここであきらめてたまるか」
ネットで色々調べた結果「ガンマナイフ」なる治療法が
脳腫瘍に良く効く事を発見。
どの病院で見てもらうか吟味して
NTT関東東病院へ資料を持って行きました。
雨の降っている日でした。
いい加減待たされて、ようやく自分の順番が。

「ちょっと適用できない大きさになっちゃってますね」

アッサリ言うね、先生。

「他の病院でも同じだと思うよ、残念ですが」


日雇いのバイトも事情を話し休ませてもらい
なるべく母のそばに居るようにしました。
「おそばが食べたい」と言われれば翌日には
そばをゆがいて持っていきました。
食べられるものは何でも食べて体力をつけて欲しかった。
しかし、日に日にゆっくりと母は衰弱していき
ロクに話も出来ない状態になっていきました。
ある日、帰ろうとしたとき「帰ったらさみしい?」
声もなく、力弱くうなずく母。
何であんなことを聞いたんだろう。
聞くんじゃなかった。

そのうち、こちらの問いかけにもほとんど反応しなくなりました。
たまに調子のいいときはわかってるのかなぁ?
目が動いたかなぁ?って感じでしたけど。
12月の半ばには呼吸器をつけないと自発呼吸も出来なくなっていました。

「延命措置はしませんよ(無駄ですから)」と先生には言われていました。

それでもコミケの締め切りは容赦なくやってきます。
正直なところ、休んだバイトのぶんを取り返すためにも
なんとしても冬コミ用の原稿を落とすわけには行きませんでした。
そして締め切りまであと2日と言う深夜。
仮眠を取っていた私を教授とあぺさんが起こしました。
「よねまる、電話、病院から」
液晶を見ると確かに病院。
時間は午前3時。
背筋が凍るようでした。
「呼吸が止まりました。」
「で?何か処置はしてくれてるんですか?」
「いえ、なにも」
すっげぇ看護婦の声が冷たく聞こえましたね

「それじゃ、死んじゃうじゃないですか!!」
それだけ言って電話を切り、二人にわけを話すと
教授がハンドルを握って送ってくれることになりました。
この時間なら50分くらいでつくはず、それまでは生きていて欲しい!!
途中で病院にTEL。
「先ほど心臓が停止しました」


「教授、もうスピード出さなくていいよ」
これだけ言ったのは覚えています。

病院に着いて心電図、脳波形がフラットなのを確認。
母に触るとまだあったかくってハッと目を覚ましそうでした。
75歳の誕生日まであと一週間でした。

8時になったらまた来い、との病院の指示で
家で教授と過ごしました。
この日は土曜日。
しっかりカレイドスターの予約入れてる自分が悲しい。

時間どおりに行くとソーシャルワーカーのおねぇちゃんが
いつまでも死体安置所において置けないからサッサと出てけ、ってな事を
ウダウダ言ってやがりました。
このソーシャルワーカー、母の生前からクソ役に立たないねぇちゃんで
俺はもう相手する気にならなかったんですが
やり取りを聞いてた教授が爆発。
俺が外で携帯で葬儀屋とやり取りしてる間、ガラスの向こうで
色々言ってたみたい。
あとでワーカーの人見たら泣きそうな顔でした。
教授、ありがとう。




そっからはなんかいろいろ自動的に進んでいって気づいたら
この文章を打ってる自分が居るわけで。

ただ、忘れないのは安置所で触れた母の足の冷たさと
ガリガリにやせ細った体です。
でも、苦しむことなく、まさに眠るように逝った母。
それだけが救いでしたね。
それと、半年以上俺が自殺することなく生きて、いや
生かさせてくれたあぺさんと教授とその他のみんなの心遣いです。

クソソーシャルワーカーのことも忘れねぇぞ

物心ついたころから母と二人きりで生活して
お互いに頼り切ってたせいか、未だに一人ってのには慣れないですね。
でも、母が生きているうちに親離れするよう仕向けてくれた
あぺさんと教授には感謝です。
おかげで生きてる、今も。
それに五体満足なのに死んだら申し訳ない人がいる。
R賀さんって言って何人わかるかな?
不慮の事故で志半ばで死んだ彼のためにも
自ら命を絶つことは許されない。
死にたくなったときはいつも彼のことを思い出します。


そんな生かされてる自分にできることってなんだろう。
毎日祈りながら少しづつ探し始めています。
骨髄バンクやアイバンクの資料も取り寄せたし
ドナーカードも持つ予定です。

これをここまで読んでくれた人ありがとう。
あなたのおかげでよねまるは明日も生きていけそうです。

そして、あなたにお願いがあります。
今もガンと闘っている人がいます。
母の旧友のオバちゃんです。
もう2年以上闘病生活してます。
母にしてやれなかった分、何かできることはないか。

そんなときに思い出したのが「UDプロジェクト」です。
細かい説明は専門のページに譲りますが
決して難しいことじゃありません。
あなたのPCのCPUパワーをほんのちょこっと
貸して欲しいのです。

どうか、お願いです。
まだ助かる見込みのある人のために
あなたの力を貸してください。よねまるからのお願いでした。

長々と何も考えずに駄文を書き連ねましたが
お付き合いくださって本当にありがとうございました。

UDプロジェクト